「完了」の形は一つではない
「不完了」によって、人はその後も苦しい時が出てくる話を前回して、その時に漫画、ダンダダンの話からアクロバティックさらさらという妖怪の話もしました。
娘を守れなかった母親が妖怪へと変わっていき、最後は自分をお母さんと呼んでくれた子ども(アイラ)を助けるために自分を犠牲にしていく。未練が残った妖怪は最後は無になって、すべての存在から忘れられる。最後に消滅の時に彼女は娘への想いを話す。
もっとたくさん遊んであげたかった
私のところに生まれなければ幸せだった
私が不幸にした…
最後に娘への謝罪を述べ、消滅しかけた時に傷つけてしまったアイラがアクロバティックさらさらを抱きしめる。そして二言
「お母さん、愛してる」
「宇宙で一番、幸せだったから」
その時、アクロバティックさらさらの中にあった未練が消えたのか、光へと変わって姿を消した。
わすれない、絶対に、とアイラが言葉を残したことから、無ではなくなったのかもしれない。
この時にアクロバティックさらさらに起こったこととして
「娘を守れなかった不完了の事実」を「娘を不幸にしてしまった母親」という自責でムリヤリ成立させていたことが考えられる。
そして彼女が望んでいたのは実の娘を守ること。しかしこれは叶わなかった。するとこの事実は完了できないのだろうか。
ならばもう一つの「娘を不幸にしてしまった母親」を見てみる。これは自分自身が感じている事実であり、ムリヤリ成立させている部分でもある。そして自責を反対に見てみるとそれは望みでもある。今回の場合はもう一人の娘であるアイラの存在が大きい。最後の言葉はどちらも不幸とはかけ離れたものだった。アクロバティックさらさらが望んでいたのは「愛し愛されたかった」「幸せにしたかった」。その二つが満たされたからなのかもしれない。そうなると娘を「不幸にしてしまった母親」ではなくなり、娘から愛してもらった、幸せにした母親へと変わり、不完了が完了した瞬間と思われる。
不完了の事実を成立するには、完了するための望みを考えることも多い。
だが不完了の事実を変えるためを考えていても、先には進めないこともある。
先の話だとアクロバティックさらさらは娘を守るためにどうすればいいか。しかしすでに終わっていることを討論しても後付けでしかない。
ならば、見方を変えてみるのも一つである。
『なぜ不完了である事実が成り立っているのか』
この視点から考えてみると、自分自身の経験でも見方が少し変わる。
「退職した不完了」は「自分にとって納得できなかった」から成り立っている。
なぜ納得できなかったのかというと振り返ると、自分はそれなりに長くやってきて、貢献してきたが最後は周りから認められるような形ではなかったように思えた(一部認めてくれた人もいたが)。認めない周りが悪い。そう思うことが楽でもあり、そのように考えるとこの不完了は成立する。
しかしその後自分自身は全く違う職種の仕事をするようになり、心理支援の道を行くようになる。
そこでは全てが新鮮で学ぶことが楽しいと思えた。全く知らない土地や世界でやっていけるか不安もあったが、人と関わる以上、必死にやるしかなかった。
そしてそれなりに周りとの関りができた頃に偶然、退職した職場の人に会う。その時自分でも不思議だったのが何も感じなかった。怒りや悔しさでも出てくるかと思ったが、何もなかった。
それは今思うと、すでに周りで自分を見てくれている人や必要としてくれている人がいて、その場所にこだわる必要が無くなったからかもしれない。
もし、退職の不完了の事実を何が何でも退職しないようにするにはどうすればよかったと考え続けていると、それは新しいものが見えなくなる。
この瞬間に自分にとっての不完了である「納得できない、認めてもらえない」が無くなり、退職は完了した。
一つは完了してもまだまだ「不完了」は自分の中に残っているので、少しずつ自分と向き合いながらも、突き進んでいこうとも書いてみて思えた。
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