『「型」を身に付けた者が破るから"型破り"』

前に自分自身の相談でのモヤモヤについて書いたが
「話している言葉の中から本当に伝えたいことを救い上げること」
そのためには相手に興味を持ち、常にいろんな角度から知ろうとすることが挙げられた。

今回はもう一つの感じていた問題についての話しとなる。
相談に関わっていく中で、必要となってくるのは知識(技法)と経験が挙げられる。
知識(技法)は知識そのものを伝える場合もあれば、その知識(技法)を相手の悩みと照らし合わせて、解決に向かっていくこともある。
経験は先ほどの知識(技法)の使い方も含めて、どのような関わり方をするか、どんな角度での物事が見れるかなど上げればきりがないほどである。そして経験の中には成功体験も一つである。人は成功体験をする方こそ、自信や満足につながり、次もまた頑張ろうと意欲も出てくる。これは相談や支援にも当然出てくることである。

どちらも必要ではあり、常に研鑽していくものでもあるが、時として厄介なものに変わる場合がある。

知識(技法)に関して一つは、そのまま受け取っただけの場合。
よく、相談では「どうすればいいか」と尋ねられることは多い。そんな時ほど、相手のニーズが解決であるために必要なアドバイスや提案を考えやすい。特に自分の持っている知識が相手にとって必要と思った時は知識を伝えようとすることが出てくる。これは間違ってはいないが知識の理解が単純であればあるほど、自分の知識を原文からあまり変えずに伝えやすい。よっぽどずれない限りは相手からすれば貴重な知識ではあるために納得されるが、実際はどうだろう。
例えばたばこをやめるためにどうすればいいと尋ねられたら、たばこをやめるためには禁煙外来がある、ニコチンパッチや禁煙ガムといったグッズがある。その知識を伝えたら、その人はタバコを止められるだろうか。
知識が浅ければ浅いほど、○○に対しては□□(知識)と無意識になってしまうのではないかと考えられる。
相手の問題が複雑であればあるほど、こちらが難しさを感じて単純化したいように思うことはないだろうか。そんな時ほど、相手に必要そうな知識を渡してその場から逃げたくなる、そう思うことはないだろうか。
勿論相手にとっては役立っていることではあるので、「それの何が悪い」と言われたらそこまでだが、知識(技法)とは何なのか、改めて考え直してみたい。

もう一つは知識(技法)に振り回される場合。
知識に関してこの問題に対してはこの知識を教えなければならないという考えも出てくる。先ほどのたばこをやめる話だと、たばこをやめるためには禁煙外来に行ってもらわなければならない。そのために禁煙外来とはどのようなものかを伝えなければならない。といった具合がありえる。技法に関してもこの問題は〇〇技法が効果的と信じていた場合、その技法をどう使うかが優先されやすい。そんなこともあるのではないだろうか。

相談する人は、話を聴いてもらっている、一緒に考えてくれるといったことから、相談相手に対して自分が立場を下に思う人もいる。そんな相手からの知識や技法は間違っていないからこそ、ありがたみを感じてもらいやすい反面、無理に受け止めて負担になってしまうことも考えられる。押し付けと提供のさじ加減が必要となる。

上記の事が起こる理由としては経験が挙げられる。特に成功体験がやっかいなのだ。
人は繰り返し上手くいくことが続くと次も上手くいくと考えやすい。仮にこの○○の問題に関して、□□の知識や技法が上手くいった。この体験自体は素晴らしいものだが、何度も通じるかは本来別問題である。しかし、成功体験が多ければ多いほど、上手くいくと無意識に出ているのではないかと、問題として定義しておく必要がある。他にも問題が難しいと感じれば感じるほど、成功体験にしがみつきやすい。それゆえに同じパターンへ持っていこうとしてしまう。このようなこともあったのではないか。

成功体験はパターン化がされることがある。これには理由として省エネ化がある。
何か新しいことをする時は、エネルギーを大量に使うことが多い。対話でもそうだ。
例えば普段馴れている人と話すときと、全く知らない人と話すのでは、緊張や疲労感も全然違う。
さらに対話の中身で言えば、同じことを繰り返し伝えることと、話しながら新しい話を生み出すのではこれまた疲れ具合が全然違うのである。相談になると余計にエネルギーを使うものである。しかし、この相談にパターンを作ると、そのパターンに沿って行けばその分新しいものを生み出すエネルギーは減り、省エネになる。
勿論この省エネパターンが絶対にダメではない。悩みには共通する面があることもあり、ある知識(技法)が複数の人に役立つことも当然ある。他にも省エネにより消耗が抑えられることで、疲れたまま話すよりは話が生き生きするので、役立つこともある。ただこの省エネのパターンが時には無意識に出てしまい、自分が楽になるための方向に行く可能性も十分あり得るのである。

実際に自分の相談を振り返る機会があったので、見直してみると似たパターンであるように思えた。
自分の場合は特に目立ったのはノーマライズ。つまり今起きている問題に対して、「そのようになってしまうのも無理がない(仕方ない)。だからあなたは異常ではない。ノーマル(普通)である」。もちろんこの考え方自体、自分自身は相手を肯定したい気持ちがあり、大切だと思っているし、必要ではあるとも思っている。しかし、見直してみると、どこからかこの「ノーマライズ」をするための対話となってパターン化している部分が見受けられた。言ってみればノーマライズのパターン化である。

対話とは本来、人それぞれ違うものであり、話しやすい部分や話しにくい所もあれば、どういう関りなら話しやすいか、またはその反対なのか、違うものである。
1から10まで話したいことを伝える人もいれば、伝えたいことがまとまっていないままの人だっている。どのような話し方や関わり方がその人にとって話しやすいかは相手をよく見て、こちらが合わせることが大切である。何なら色んな人と話している中で、これは同じ人が話しているのかと全く違うキャラクターだと思わせるほどの変幻自在さが必要である。
(有名人なら、そのキャラクターに惹かれて話しに来るので逆にくずしてはいけないということもある。それはそれで大変そうだが)

ここまで知識や経験を否定的に話したが、ここで知識、経験を「型」として考えてみる。

型についてはソウルキャッチャーズという漫画でこのようなシーンがある。
この漫画は強豪の吹奏学部を舞台にしているが、その中で誰にも縛られずに自由に演奏する部員がいた。しかし、その演奏をねじ伏せて楽譜通りに従わせる先輩がいた。
自由に演奏したい部員は、楽譜に縛られすぎだから、たまには型破りなこともやらせてほしいという。

先輩からの言葉は

『「型」というのは基礎練習と勉強をやりぬいた者が身に付けるもの』
『「型」を身に付けた者が破るから”型破り”』
『部活をサボって基礎連不足のお前は”形無し”だ』

そもそも知識も経験も多くの積み重ねで出来ており、この基礎練習と勉強をやりぬいて身に付けるとものには共通している。

何も学ばず、経験もなければそもそも形無しであることも一緒である。経験に関しては経験がなければ経験を積ませてもらえないというジレンマがあるため、経験がないことに対しては卑下するつもりはない。そのジレンマはおそらく自分も含め多くの人が苦しんだ、またはいるのだから。

では知識に戻って、知識の「型」とはどのようなものだろうか。
知識が豊富であればあるほど、様々な角度から物事をみることができる。先ほどのたばこをやめたいならば、ニコチンパッチなどの「道具」の知識、禁煙外来の「制度」の知識、体や脳内ではどのようになっているのかの「身体」の知識、などなどが考えられる。
そのようにタバコをやめたいだけでも、利用可能な知識がたくさんある。しかし相手に照らし合わせてみると、やめたい本人は全てを知りたいわけではない。極端に言えば、制度だけ分かれば後は自分で禁煙外来に行きます。で終わることもある。もしこのように「制度」の知識だけで済むことが続いたらどうだろう。そのうちにタバコを止めたい問題は、制度を説明するが答えになってしまう。そして何度も引き出されている制度についてはより詳しくなるかもしれないが、他の知識は引き出されなくなり、使うことはなくなっていく。このようにたくさん知識を持っていても、特定の知識だけを使って解決しようとする、そして表向きには解決できてしまっていることがあるのではないか。そこから持っている知識の使い方がどんどん固まっていく。それが知識の型となるのではないかと思われる。
経験の「型」も似ているだろう。最初に話した成功体験がまさに一つの型ではある。こうしたら上手くいったが続けば続くほど、同じやり方が続いていく。よく言えば洗練されているとも言えるが、それ以外の事ができない、通じないといった時は、あらたに違うやり方(型)を考えれるといいのだが、凝り固まった場合だと、上手くいた成功体験に持っていこうとすることがある。先ほどのたばこのやめ方だと、いかに禁煙外来が素晴らしいのかを説いていくかをしていき、「禁煙外来に行かせる」が目的となるが考えられる。

どちらも身に付けていることには間違いないが、結局問題となっていくのは「固まる」ことである。

固まることは見方によっては安定しているともいえるが、特定のものしか支えられないと思っておいた方が良い。それ以外の事は動くことが出来ないのだから。

まず、上手くいかない、違和感を感じるなどをした時は、自分の型を見直してみるのが大切である。自分のやり方が同じではないか、前も似たようなことを言ってないか、していないかなど、昨日と今日を見比べてみるのも一つである。

では固まった「型」をどうすれば破れるか。
破り方は多数あるので、破り方を絞るのはかえって可能性を下げてしまうので特定しないが、一つの例として、再び漫画の話をしよう。

拳児という武術家の物語である。
この主人公拳児は幼い頃から祖父に中国拳法の八極拳を学んでいた。しかしある時に祖父が中国で行方不明になり、祖父を探すために単身中国へ旅をすることになる。その時にさまざまな武術家と出会い、八極拳に限らず、多くの拳法、武術を学ぶことになる。
その中で、新しい技を学ぼうとした際に、師父から

『今までに養ってきた功夫(修練によって養った力)を一度バラバラにしてしまうことになるかもしれない。その覚悟はあるか』

と覚悟をきかれ、拳児はこう答えます

『修行は何度もこわして、ゼロから再出発する度に大きくなると教えられました。だから覚悟はできています。』

彼はその言葉通り、ベースは八極拳という拳法ではあったが、何度も新しい技、拳法に挑戦するたびに、自分を壊していく努力をしていた。

型を破るためには、慣れを捨て、一度全く違うことをして、みるのも一つである。拳児の場合も拳法ごとに修行は違うが、各修行に励み、努力してきた。
自分の場合でも、慣れ親しんだ人や知識(技法)にばかりか頼るのではなく、時には全く知らないが興味がある人にコンタクトをとってみたり、慣れている人にこそ、受け入れるだけではなく疑問をぶつけてみることをするように意識している。

知識(技法)も経験も積み重ねた修練だからこそ、形となり型となる。その型に至るまでの努力は素晴らしいものである。だからこそその型を否定しないためにも、時には壊し、再構成していく過程も必要なのである。

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